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はばたくベルギー
18世紀の終わりになると、ベルギーは自国のアイデンティを主張することができるまでになりました。皇帝ヨゼフ2世が教会、貴族、市民の特権を攻撃したのが大きなきっかけでした。1789年にフランス革命ののろしが上がるとベルギーも国中が蜂起してオーストリアの支配に反逆し、1790年、ベルギー合衆国の独立宣言が読み上げられました。しかし、指導者たちが分裂するとオーストリアがすぐさま主権を奪還してしまいます。幸運にも、このおかげでベルギーはフランスのロベスピエールによる迫害の嵐を免れることになります。やがてオーストリアはフランス共和国との戦争に入り、1795年にベルギーはフランスの手で「解放」されました。
フランスによる改革
フランスは国政の徹底的な改革を推し進めます。このとき導入された近代的な行政と法律のシステムが、後にベルギー政府の基盤となりました。ところがフランスの意図はベルギーを収入源と兵員供給源として収奪することにあり、民衆の反対運動はことごとく弾圧されました。ナポレオンが台頭するとフランスの支配がやや建設的になります。スヘルデ河口の開放やアントワープ復興の影響で産業が再活性したのです。ベルギー製品の新市場が生まれるにしたがい、経済も豊かになってきました。
ワーテルローの戦い
ナポレオンが全ヨーロッパを敵に回して戦争を始めると、フランダースはふたたび戦場になりました。1815年、ブリュッセル近郊のワーテルローでナポレオンを倒した連合軍は、フランスの再侵攻に備えるための「緩衝国」として、オランダとベルギーを融合。オラニエ公ウィレム1世を擁立してネーデルランド王国を建国しました。いまやフランス市場のくびきから解放されて一層工業力を増したベルギーと海運力と豊かな植民地に支えられたオランダ。経済上は理想的な合併でした。
事件が革命に発展
ところが、ベルギー国民はこの事態に不満でした。さらに、ウィレム国王は議会制度を毛嫌いしたため、フランダース伝統の独立精神や反貴族支配の思想とまっこうから対立する図式になってしまいました。1830年、敵対関係は一触即発の状態に。ついに8月23日、国王誕生日を祝う特別演奏会の後にブリュッセル歌劇場前で行われた小さな失業者のデモから火が付き、本格的な革命が勃発しました。
国家創造
勢力の均衡を維持するため、列強各国はベルギーの独立を承認しました。ロンドンで会議が開かれ、憲法にのっとりザクセン・コーブルグ家のレオポルド王子が初代国王に選ばれました。この憲法は王室の権限を大幅に制限するものでした。1831年7月21日、新王レオポルド1世がブリュッセル入城の儀式を終える間もなく、オランダが攻撃をしかけてきました。オランダとの戦争は9年間続き、敗北寸前のところでベルギーはフランス軍に救われました。
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